苦しみの中で生きるということ
『神との対話』を書いたニールの最終巻『神に帰る』の概要を説明しているブログを見ていて【苦しみの中で生きる】と言うことについての気づきを得た。
物事は起きるべくして起きている。
そしてそれが起きる事も、自分自身が許可している。
苦しみ出来事を経験しても、それは本人(魂)が望んだ事であると。
そんな事は、到底その当事者には言えない訳で。すると神は言う。
神
「苦しみの最中にある人達には、深い同情と優しい愛情を持って寄り添えばいい。
霊的な真実をその人達に言っても、癒せはしない。」
苦しみの最中にいる人は『真実』で癒やすことはできない!?(*゚Д゚*)ェ…
苦しみの中にいる人は「同情」を求めていると言うことに!
「同情される」ことは「愛されること」と勘違いしているのね。
かまって欲しいと思っていたり、気にかけて欲しいと思っていたりしている。
その為に「苦しみの中にいる」ということなのね。
と言うことはですね、
トラウマの苦しみの中に、私がまだ存在すると言うことは「同情されたい」ということね。
同情と愛情との混同もしてないつもりなので、対処するべきは「同情されて得した事」が記憶に学びとして残っているということ。
苦しみの中で生きるメリットて何でしょうか。
そんな事を考えていましたら宗教的思考が浮かび上がります。
『苦しみの中で生きる人は幸い。
神に愛される(救われる)のだから』
過去生で教えられた宗教的思想は
私達の無意識の奥に
今もなお、秘められて存在していました。
続けて神が言うのは
「まず寄り添って痛みを癒し、それからその痛みを創り出した思考を癒しなさい。
痛みが癒されれば、人は「真の犠牲者などいない」との認識レベルに到達できる。」
だからこそ、思考を置き換えるエネルギーワークを始めたけれど、今後はその技術も神に取り上げらるかも知れませんね。
何故なら良くない方向に使われ始めているから。
「癒やす」というのは、感情や記憶の話です。
思考を消しただけでは「癒せない」のが現実のよう。
全ての現実を起こしているのは自分自身(の思考)だと知れば、誰かを恨むことなく、自分を改めるしかなくなります。
それを認められない内は、
常に誰かのせいにして、苦しみの中に居続けなくてはならないようです。
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